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最終更新日
2005/06/01

「上海をめぐる日・仏の情報交換ネットワーク」(『上海−重層するネットワーク』日本上海史研究会編、汲古書院、2000年)
【要約】
本稿は20世紀のはじめ「国際都市」上海の一構成員であった上海の朝鮮人と日本のベトナム人をめぐって 日本とフランスが構築しようとした情報交換ネットワークの形成過程を解明することを目的とする。

上海の朝鮮人と日本のベトナム人。一見、何の関係もないように見えるこの二つの事柄は、 朝鮮を植民地とする日本とベトナムを植民地とするフランスという二つの植民地「帝国」によって深い関連をもつことになる。

従来の先行研究では1919年の朝鮮における三・一独立運動以後、上海に設立された韓国臨時政府が フランス租界に存立できたことはフランスの理解と協力によるものであると説明されてきた。 しかし、フランス側が上海の朝鮮人を保護したという理解は必ずしも適確なものではない。 フランス側は日本に滞在するベトナム人独立運動家の情報が提供されるのであれば、 上海の朝鮮人に関する情報を日本側にすべて渡してもよいと考えていたからである。

日・仏両国は「帝国」の治安を脅かす「不逞鮮人」と「ベトナム革命者」を取り締まるために 一九一九年、一九二五年、一九三一年の三回に渡って情報交換のチャンネル作りを試みた。 そのために上海の領事館、北京の公使館、駐日、駐仏大使などあらゆる外交チャンネルが動員されたが、 相互主義による情報提供と協力は、日・仏両国の思惑の違いによってなかなか成立しなかった。 しかし、時局は急変し、一九三一年の「満州事変」と一九三二年の「桜田門不敬事件」、 そして、上海の虹口公園でおきた爆弾テロ事件を契機に日・仏両国は全面的に情報を 供給する方針を決定することになった。「帝国」の安全を最優先する日・仏両国の植民地支配は 植民地に関する情報の統制を当然の前提としたのである。



「東アジアの『国籍』と近代 ― 1920年代、「国民」をめぐる言説」(『複数の近代』北海道大学図書刊行会、2000年)
【要約】
19世紀末、東アジア諸国は近代的な意味においての国民国家の建設という共通の課題に直面していた。 中国、日本、朝鮮は欧米の諸制度と概念をそれぞれの国の文脈で理解し、自国に適用しようと試みた。 しかし、国家と国民の形成を同時に進めなければならない作業は当然、困難をきわめた。 日本に限っていえば、日清戦争、日露戦争の戦勝により国民意識は容易に獲得されたかのように思えた。 しかし、単一民族として想像された国民国家の意識は、台湾と朝鮮という植民地を獲得することで 直ちに多くの矛盾に直面することになる。日本は、果たしてどのようなイメージをもって植民地の人々を 新たな国民として迎え入れようとしたのだろうか。そして、国民のイメージは法律のなかで どのように具体化するのであろうか。

東アジア近代における国籍問題については、すでに東南アジアにおける華僑と華人問題のアプローチ、 そして、台湾籍民問題からのアプローチ、満州国における国籍法の問題、 そして、帝国と植民地の内縁と外縁を論じる最近の日本近現代史の研究など多くの分野で優れた先行研究が報告されている。 しかし、一九二〇年代、中国の国籍法改正をめぐった日本と中国の間でくりひろげられた議論はほとんど知られていない。 はたして、日・中両国は相手の国の国籍法をどのように解釈し、各々の「国民」を確保しようとしたのだろうか。 また、自国の影響力が明確に及ばない異法地域や国境などの境界地域に居住する人々に対して国籍法はどのように適用されたのだろうか。

本稿は一九二〇年代、日中関係史において見られた国籍法の解釈と運用問題を主に歴史学という観点から分析するものである。 したがって、国籍の概念、機能、国籍の一般原則などの法理の面から国籍「法」を分析する手法はとらない。 そのかわりに、国籍法が実際、行政と実務の場面でどのように解釈され、適用されたのか、という問題の解明に重点をおきたい。



  
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