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「歴史研究と図像資料のデジタル化」(ワークショップ報告・神奈川大学21世紀COEプログラム『非文字資料研究』NO8、2005年)
【部分】
『良友』画報(1926年―1945年)の世界
ところが、20世紀前半の都市上海の自画像を写真などの図像を通して描きだそうとする時に、『良友』画報という
グラビア雑誌の存在はきわめて重要な位置を占める。『良友』画報が注目される理由は1920年代から1940年代に
いたるまでの都市上海の生活が同雑誌に凝縮されていると考えられるからである。中国近代史において写真を多用した
大型総合グラビア雑誌としてこれだけ長期間発行されたのはきわめて異例のことである。
『良友』画報は1926年2月創刊され、1945年10月まで総172号を発行したが、その記事は中国の政治・経済を含む
ニュースは勿論、社会・生活に関する大量の写真情報を盛りこんでいる。とくに、この『良友』が創刊された
1920年代は東アジアで大衆社会の到来とも言うべき社会現象が幅広く見られた時期で、都市を舞台に中流階層が生まれ、
彼等の娯楽としてラジオと映画や百貨店などが登場する時期とも重なる点、注目されよう。
紙面の関係で、ここでは『良友』画報の記事を全面的に紹介することはできないが、幾つかの特徴的な場面を紹介することにしたい。
『良友』画報が上海の都市生活を伝える時に最も多くの紙面を割いたのが映画(電影)という新しい
メディア媒体の紹介であった。1920年代〜1930年代にかけて上海では、従来の印刷を媒介にしたメディア媒体
(新聞、雑誌など)に加え、映画とラジオ放送などの新しい大衆媒体が次々登場し、人々の生活に大きな影響力を及ぼし始めた。
ハリウッド映画が映し出す欧米人の生活スタイルは、上海の人々に新しい時代の到来を告げるものであったが、
『良友』画報はその時代の流れを誰よりも敏感にキャッチしていた。
その次に注目されるのは、『良友』画報が上海の消費生活を象徴する様々な広告を掲載していることである。
その代表的なものが商品販売と娯楽の面で新しい商業文化を創造したと評価される百貨店との関係であろう。
上海を代表する繁華街南京路に遊興設備として有名な「大世界」と「新世界」が営業を開始し、先施公司(1917年)、
永安公司(1918年)、新新公司(1926)、大新公司(1936年)などの百貨店が次々と開業することで上海は新たな
消費文化の発信地としての役割を担うことになる。
「1860年代の上海における日本情報」(神奈川大学人文学研究所編『明六雑誌とその周辺』御茶の水書房、2004年)
【要約】
19世紀末の東アジアにおける国際関係を説明するモデルの中で、西洋の「衝撃」と東
洋の「対応」という図式は、長い間多くの人々から支持されてきた。この欧米中心主義
的な図式に異議を唱える人々は「近代」と「伝統」の対決、または、アジアにおける東西
文明の対抗という図式をもって19世紀のアジアの変化を説明しようと試みているが、「衝
撃」と「対応」モデルは依然として有効である[i]。その場合、西洋の「衝撃」として注目され
る事柄は、中国の場合は1840年のアヘン戦争であり、日本の場合は1868年の明治維
新であり、朝鮮の場合は1875年の日朝修好条規の締結である。東アジア3国における
近現代史はまさにこの西洋からの「衝撃」をもって開始されたのである。
西洋の「衝撃」は様々な分野において違う形で現れた。それは例えば、政治の方面では
砲艦外交に象徴される条約体制の締結と租界の設定いう形で、経済の方面では産業
革命によって大量生産された綿製品がアジア市場を圧倒する形で、社会の方面では宣
教師の活動(教会と医療活動など)が文明という価値観を植えつける形で、そして、文化
の方面では書籍の輸入によって自然科学と人文科学に関する知識を広める形で現れた。
上記の分類に当てはめて考えると、今回本書が取り上げる『明六雑誌』は、西洋の「衝撃」
に対する文化の方面での日本の「対応」を表すものになろう。『明六雑誌』が多くの研究者
を魅了したのは、同雑誌の分析と研究によって明治初期における日本の「対応」を解明す
ることができるからに他ならない。例えば、高野繁男「『明六雑誌』の語彙構造」は明治日
本が欧米の思想や制度を理解するために必要な新しいことばを生産する場として機能した
『明六雑誌』の語彙について分析したものである。
ところが、このような西洋の「衝撃」という大きな波がいったん収まった時に、東アジア諸国の
内部では小さな波が共鳴していたことを見逃すわけにはいかない。その最も代表的な動きは
日本と中国との間で見られると考えられる。そこで、本稿は明治維新以前の1862年に上海
で刊行された『上海新報』をとりあげ、1860年代の上海で近代的な意味においての新聞が
発行されることの意義と紙面の構成上の特徴、そして同紙の記事にみえる日本関係の論
説などについて述べておきたい。
さらに、本稿が『上海新報』の紹介を試みるもう1つの理由は、同紙が明治維新を前後した
時期、日中関係史において重要な役割を果たした可能性があるからである。1862年、幕末
の志士として名高い高杉晋作が上海を訪れ、アヘン戦争と太平天国という混乱によって清朝
が崩壊する過程を目の当たりにした情報源のなかに『上海新報』が含まれていたことを指摘して
おきたい。幕末の1862年、高杉晋作は幕府が上海に派遣した千歳丸に同乗し「上海淹留
録」を書き残しているが、『上海新報』に直接関連する記載が管見の限りでは2回、登場する。
一箇所は「念七日。中牟田と英人ミニユヘルに至る。上海新報、数学啓蒙、代数学などの書
を需めて帰る」、もう一箇所は、「六月二日。朝、五代と上陸し、字林洋行及び施医院堂に
到り、書を求む」という記載である[iv]。最初に登場する『上海新報』とは言うまでもなく、本稿が
取り上げる上海新報そのものであり、六月二日に登場する「字林洋行」とは『上海新報』を刊
行した出版元を指す。『上海新報』は果たして日本関係のどのような情報を記事に伝え、また、
高杉晋作は中国関係のどのような記事を読んでいたのだろうか。
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