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最終更新日
2006/09/20

書評「八月十五日の神話』-終戦記念日のメディア学(ちくま新書、2005年)(『神奈川大学評論』第54号、2006年)
【部分】
ところが、日本のマスコミは、中国での反日暴動や靖国参拝に対する一部の過激な動き、 そして、小中高等学校における抗日教育の実態などを頻繁に取り上げるが、教育の現場からは 従来の革命史観を脱皮する変化の兆しが現れ始めていることは取り上げていない。 その一例を、上海市の中学教科書『上海郷土歴史』(上海市中小学校教材審査委員会審査准予試験用、 二〇〇三年六月)を通してみることができる。すなわち、同書の第二章「城市的発展」は、 上海の都市の発展を取り上げ、租界の成立を「国中の国」という不平等条約体制の産物として 説明しながらも、貿易と商業の現場で使用されたビージョン・イングリシュ(商業英語)や 租界の競馬場が人民公園に変容する歴史が紹介され、第三章「中国工業的中心」では、 上海の四大デパートの登場と消費文化の成熟が、第四章「中国近代文化的発源地」では、 上海の出版や印刷をリードした商務印書館の役割がそれぞれ紹介されている。
毎年の八月を迎えるとマスコミは競って、靖国の追悼の方法や中国、韓国の抗議に焦点を当て、 新聞などは歴史に向き合うことを呼びかける一大、キャンペーンを展開する。 2006年の今年は自民党の総裁選挙や昭和天皇の発言などがあったことから早くも過熱の様子を呈している。 しかし、大事なことは靖国の代わりにそのほかの国立の追悼施設を設けることだけでは、 解決の糸口は見つからないということである。アジア諸国が共有できる戦争の記憶を次の世代に 継承するためには、再度、歴史研究の原点に立ち戻る必要があろう。本書を日本とアジアの過去、 現在、そして、未来の歴史を考えるための必読書として推薦したい。



「租界と居留地に刻印された人間活動の営み」
     (神奈川大学21世紀COEプログラム『非文字資料研究』ニューズレター、第12号、2006年)

【部分】
このような都市景観の比較検討が従来の政治史や経済史に重点を置いた歴史研究とは 異なる有意義な作業仮説を提示してくれることは言うまでもないが、租界における 人間活動の営みというより具体的な分析という課題は依然として残る。 ここで筆者が大きな示唆を得た本が、戦前中国で出版された周世勳編・朱順麟撮影 『上海市大観』(上海、文華美術図書公司、1933年)である。 同書は、租界を含む上海市全体を都市の区画整理を基準に、 交通(鉄道、路面電車、船舶、バス、タクシー)、 商業(百貨公司、レストラン、茶館、化粧品売り場、お菓子屋)、 娯楽(ホテル、ダンス・ホール、映画館、競馬場)などの関連施設を 写真資料として掲載するほか、各営業品目の内容にまでふれている。
筆者は、同書の斬新な構成を現在のCOEプログラムに応用する視点として 産業遺跡の存在に注目している。人間活動の営みは個人と国家というレベルで 自分史や一国史として集約されるほか、各種の産業部門にも蓄積され、 その資料が「社史」として文字化される他、工場や設備などが産業遺跡、 または景観として現存する場合が多く、今後の歴史研究においてさまざまな 可能性が潜んでいると考えられるからである。中国でもこれらの産業遺跡が注目され、 薛順生他編『老上海工業旧跡遺跡』(上海、同済大学出版社、2004年)は、 都市上海の発展を支えた租界の公共事業(ガス、水道、電気等)と 紡績、製薬、煙草、造船、印刷産業などの代表的な産業建築が戦前から戦後をへて、 いま現在、どのように継承されているのかについて述べている。
租界の産業遺跡という視点を歴史学分野でどのように非文字資料研究と 組み合わせながら体系化するのかは、今後の課題であるが、 ここでは紡績産業を取り上げたときの作業仮説を紹介し、 どのような成果が期待されるのかについてふれる。



「漢口の都市発展と日本租界」(共編『中国における日本租界』御茶の水書房、2006年)
【部分】
本稿はこのような近年の中国都市史研究の活発な研究成果を念頭に入れながら、中国大陸のほぼ中央に位置し、 内陸水運の中心としての機能を担ってきた漢口を取り上げ、その都市発展の歴史の概略を整理しながら、 日本租界との関連を検討していくことにしたい。
古くから九省の要衝、天下の四大鎮の一つとして数えられた漢口の地政学な位置の重要さは、 19世紀中ごろから21世紀を迎えたいま現在まで変わらない。伝統的な中国社会のなかで 内陸水運の中心と繁盛した漢口は、アヘン戦争に続く天津条約により欧米諸国に開放され始め、 本格的な都市発展を経験することになる。 とくに、最初に設定されたイギリス租界を中心とする漢口の都市形成は、 1906年の京漢(北京と漢口)鉄道の開通をもって飛躍的に発展する。 中国の南北を結ぶ水運と鉄道交通の要衝地である漢口は、東方のシカゴと呼称され、 その発展が見込まれた。

この漢口に日本の専管租界が設定されるのは1898年のことで、以降、日本租界が中国側に返還される 1943年1月まで約50年間に渡り、漢口には日本租界が設定されていた。果たして、 漢口の都市発展の歴史と日本租界はどのような関係をもっていたのだろうか。
また、中国大陸での利権争奪戦に遅れて参加した日本は、漢口の日本租界経営において どのような困難にぶつかるのだろうか。



「漢口日本租界関係資料」(共編『中国における日本租界』御茶の水書房、2006年)
【部分】
ここでは十九世紀から二十世紀前半にいたるまでの漢口日本租界の形成と発展を理解するために 必要な一次資料を取り上げている。主に外務省外交史料館が所蔵するこれらの一次資料を通して、 漢口日本租界の設定と運営に漢口領事(館)が極めて広範囲に渡りかかわっていることがわかる。 とくに、漢口のような日本専管租界地においては、領事官は治外法権を理由に法律関係において 中国の管轄権を排除し、いわゆる一般行政権を行使することができた。その行政権は、 最も重要な警察権と裁判権の他に、例えば、(一)在留登録事務、(二)在留民(及び船舶)保護事務、 (三)在留民(及船舶)取締事務、(四)学事に関する事務、(五)祭祀に関する事務、 (六)兵事に関する事務、(七)居留民に関する公共事務などあらゆる範囲を含めている。

さらに詳しくみてみれば、領事館は、居留民取締規則、質屋営業取締規則、医師規則、 鉄砲火薬取締規則、密輸取締規則、出版物取締規則、土木建築工事取締規規則などの業務を 領事館が管轄していたことになる。ここで取り上げた@「漢口日本居留地取極書」〜 H「在支各地日本商工会議所の補助に関する件」(Fを除く)はこれら領事館の業務と関連のある資料である。



「日中戦争と上海の日本語放送」(共編『戦争・ラジオ・記憶』勉誠出版社、2006年)
【部分】
1920年代の東アジアをメディア史という観点から捉えるときに、ラジオ放送の誕生はひときわ大きな意味をもつ。 従来の新聞、雑誌など活字を用いた情報の伝達はいずれも活字を媒体にするがゆえに生じる「時差」を克服することができなかった。 しかし、「空中」の電波を通じた情報の伝達は遠く離れた遠隔地の人々がそれぞれの地で同時に情報を共有することを可能にしたのである。 また、1920年代の東アジアのラジオ放送は近代的な「国民国家」の建設にも大きな役割を果たした。 例えば、日常生活における天気予報、標準時刻、ニュースという「常識」を共有する国民の登場は近代的な国民国家の形成に必要不可欠なものであった。 (中略) とくに、日本の場合はラジオ放送が国策に順応し、国策を代弁する事態が長期間にわたっていた。例えば、日中戦争勃発に際して、 ラジオ放送は「全機能を挙げて戦時体制下の国策に順応し、其の遂行に寄与する事に万全を期して居る」ことを宣言し、 具体的には「皇室尊崇日本精紳振作を一層国民に徹底せしむるため四大節国民奉祝の時間」の特別放送を実施し、 1937年の8月から12月にかけては、「国民心身鍛w)フ・u期潟пv、「国民協力週間」、「国民精神総動員強調週間」、 「国民精神総動員産業週間」など政府の国策に協力する一大キャンペーンを展開した(日本放送協会編『ラジオ年鑑』1938年)。 そして、太平洋戦争の勃発はラジオ放送と戦争協力の実態を余すところなく暴露してくれる。日米開戦という総力戦に際して、 日本のラジオ放送は「姿なき大砲」としての機能を果たしたのである(日本放送協会編『ラジオ年鑑』1942年)。

以上、東アジアにおけるラジオ放送と戦争について簡単に触れてきたが、本稿はそのなかでも日中戦争を前後した時期に上海で設立された大東放送局 (日本語、コールサインXQHA)を取り上げ、同放送局が設立される経緯や放送番組の実態などを同放送局の業務報告などを通して分析する。 さらに、日中戦争を前後した時期の上海と華中地域においてラジオ放送の統制を担当した中支那派遣軍報道部放送班の活動についても紹介したい。



「外務省外交史料館 無線電信・ラジオ関連資料」(共編『戦争・ラジオ・記憶』勉誠出版社、2006年)
【部分】
外務省外交資料館が所蔵する電信・ラジオ放送関係の史資料は、大きく分けて各国に無線電信関連の借款を供与する時に 作成される資料と外務省の手先機関である領事館が収集した資料とで構成される。1920年代以降の無線電信・ラジオ関連の資料は、 F門(交通、通信)に集中しているが、その他に、電信関連の企業資料にも関連資料が所蔵される場合がある。

 一.無線電信局の建設と企業関連の資料
電信関連の企業資料の中でも、とくに「無線電信関係雑件・三井関係」(請求番号: 1‐7‐4‐47)は 注目に値する。 なぜならば、この資料によって、民間企業の無線電信局建設問題が、外交当局を巻き込む国際問題への発展する過程を窺うことができるからである。

ことの発端は、1918年に三井物産と北京政府の海軍部との間で、無線局を建設する契約が締結されたことに始まる。 北京の双橋を建設予定地に工事は始まったが、この契約は、今後、30年間にわたり、三井物産が中国の海外無線局について 独占権をもつ規定を含んでいた。その後、順調に工事が進み、無線電信局が北京政府に引き渡されたのであれば、 外務省外交史料館に関連資料が残る可能性が少なかったかも知れない。



「上海市档案館 ラジオ関連資料と日中関係史」(共編『戦争・ラジオ・記憶』勉誠出版社、2006年)
【部分】
上海市档案館が所蔵するラジオ関連資料は請求番号Q005(上海市公用局)、Q006(上海市社会局)、 Q049(上海広播電台)、Q124(上海市政府会計処)、Q131(上海市警察局)、Q235(上海市教育局)などに含まれている。 上海のラジオ関連資料が上海市公用局から上海市警察局まで多くの部局にかかわっていること自体、 ラジオ放送のもつ多義性を想起させてくれる。なかでも、とくに重要な資料は上海広播電台に関連するファイル群である。

一.上海広播電台(請求番号:Q049)のファイル
例えば、『聴衆来信』(Q049-5-10)は一九三七年の日中戦争を前後した時期の聴取者からの手紙を集めたものである。 聴取者からの手紙は上海の他に南京、香港などからも寄せられており、「同泰和糧食行信箋」という 便箋に書かれた手紙はラジオ放送の聴取の状態の他に、日本側による妨害電波についても記載している。 また、『処理日籍職員工人事材料』(Q049−1−15)は、戦後に中国側が接収した日本の上海広播電台関連資料で、 汪精衛時期の上海広播電台の副台長であった並河亮、山口英夫(工務科)、千葉為次郎(工務科)、 大月和夫(工務科)、上田武治(工務科)、近藤五郎(傳音科)の人事に関する記録をまとめたものである。



「防衛庁防衛研究所史料室所蔵の無線通信・ラジオ放送関連文書」(共編『戦争・ラジオ・記憶』勉誠出版社、2006年)
【部分】
防衛研究所史料室は旧陸軍省が編集した明治元年から昭和17年までの公文書「陸軍省大日記」と旧海軍省が編集した 明治9年から昭和12年までの公文書「海軍省公文備考」の他、各種戦史関連資料を所蔵している。これらの資料は 基本的に文書受発の日付順に整理されており、テーマ別に資料を探すことは容易ではない。但し、旧陸・海軍の軍事作戦において 有線・無線通信とラジオによる情報の統制はきわめて重要な軍事作戦の一部であったことから発見した資料は迫力がある。

一.旧陸軍関連のラジオ関連資料
例えば、『昭和14年陸支密大日記(密)第41号』(請求番号:陸軍省/陸支密大日記/S-4-64/153)は 日中戦争を前後した時期の華中地域における陸軍の軍事作戦に関する資料を集めたものであるが、 同資料の中の「南京及漢口ラジオ局建設工事実施要領」は、特にラジオ放送の統制について述べている。 それによれば、陸軍は南京と漢口で中国側の「虚構煽動」的な放送を排除し、「皇軍戦勝の決を迅速」に知らせることを 目的に十キロワットのラジオ放送を実施することを計画した。しかし、戦闘の最中に軍が放送局を設置することはなかなか難しい。



  
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