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『良友』画報と映画(『アジア遊学』第103号、2007年9月、6−15頁)
【部分】
『良友』は映画という新しいメディア媒体が都市を象徴する文化装置として機能することを敏感にキャッチし、
その紙面の多くをハリウッドや中国の映画関連の情報を紹介することに充てていた。
そこで、本稿では、『良友』に登場する映画に関連する様々な記事を取り上げ、
『良友』を通して読み取れる中国の映画産業の舞台裏について紹介を試みたい。
『良友』と動植物の保護(『アジア遊学』第103号、2007年9月、62−63頁)
【部分】
例えば、上海市立動物園の初代主任を勤めた沈祥瑞は、一九三五年八月からほぼ半年に渡り上野動物園で実習を行い
動物宿舎の管理や運営などについて見聞を広めている。さらに、名古屋、京都、大阪、神戸、阪神、千葉などの
動物園と水族館を訪問し、一九三六年四月に上海に帰国した。
一九三六年四月一六日の『東京日々新聞』は、上海市立動物園の主任沈祥瑞が半年にわたる日本滞在を終え、
帰国する様子を紹介しながら、「熊をみやげに沈さん帰る」という記事を掲載している。
「戦前の外務省の中国への留学生派遣について」(『中国研究月報』2007年9月号、1−16頁)
【部分】
本稿では、明治期から大正期にかけて外務省が派遣した日本人の中国留学がどのような制度や規定によって行われ、
どのような選抜試験が行われたのか、派遣留学生の北京と上海での学習の様子はどうであったか、
規定の留学期間を終了した後、さらに香港に留学する理由は何か、そして、1920年代に入って、
外務省の留学生が東亜同文書院に委託される経緯はどうだったのかなどについて外務省外交史料館が所蔵する資料を
もとにして明かにして行きたい。
「中国の抗戦勝利記念日のポリティックス」
(『東アジアの終戦記念日―敗北と勝利のあいだ』、ちくま新書、2007年7月、196頁−221頁)
【部分】
終戦詔書の英語訳としては一九四五年八月一五日のNippon Timesに掲載されたImperial Rescriptが知られ、
外務省外交史料館の記録にもNippon Timesに掲載された内容とほぼ同文の英訳タイプ原稿が残されている。
それでは、英語や日本語で発せられた終戦詔書の中国語訳はいつ発表されたのだろうか。
日本側の研究では終戦詔書の中国語訳が紹介される機会は少ないが、終戦詔書の中国語訳は『中央日報』(一九四五年八月一七日)と
『新華日報』(年八月一六日)にそれぞれ掲載されている。
『新華日報』と『中央日報』の両方に掲載された玉音放送の中国語訳は、
中国を代表する通信社で諸外国からのニュース配信を一手に引き受けていた中央社の打電によるもので、
若干の字句の異同は認められるものの大筋では変わらない。
「戦前中国留学生の『実習』と『見学』について」
(『人文学研究所報』2007年3月、23頁〜31頁)
【部分】
本稿は清末から1930年代にまで続く中国人留学生の「実習」と「見学」が鉄道、郵便、電信、医療、農業、水産業、紡績工場など産業全般に
渡っていたことを『官報』と日華学会の年次報告、そして、日本外交史料館所蔵の資料の分析を通して明らかにしたい。
新聞記名記事「東アジア共通の歴史教科書―『自国主義』を超える一歩を期待」
(『京郷新聞』、韓国、2007年1月20日、原文は韓国語)
【部分】
自国中心主義の歴史を脱皮することは容易なことではなく、中国、韓国、日本の参加者の意見の相違から研究会は度々激しい議論が交わされたのも事実である。
例えば、日本の植民地支配の問題、中国の文化大革命、韓国の光州民主化運動、台湾の二二八事件、ベトナム戦争の問題などその評価がまだ定まっておらず、
特に多様な意見が提示された。しかし、そこで繰り返し確認されたことは自国中心の偏狭なナショナル・アイデンティティを乗り越えなければならない、
という点であった。この五年で人・モノ・情報の流れがさらに加速した東アジアの上海・東京・ソウルの街角では国境を越えた市場の論理が均質化している。
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